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2011年4月26日 (火)

東日本大震災での視覚障害者2

新聞各紙に掲載の視覚障害者に関連した以下の記事をご紹介します。



【避難所にマッサージで恩返し 大船渡の荒熊夫妻】

2011年4月22日 岩手日報



【震災生活ドキュメント 視覚障害者、ご近所が支援】

2011年4月21日 読売新聞



【東日本大震災:視覚障害者に支援届かず】

2011年4月20日 毎日新聞

【視覚障害者/津波は音もなく来た】

 視覚障害者の越中美智枝さん(59)は3月11日、宮城県石巻市中里の自宅で地震に遭った。

 激しい横揺れに、座っていても体がずるずると動いた。物が落下し、背後の食器棚の中で皿や茶わんが次々と割れる音がする。「危ないと思っても動けなかった」。座布団で頭を守った。

 揺れが収まると、100メートルほど離れた中里小に小学2年の孫娘(8)を迎えに行こうと白杖を手に外に出た。

 網膜色素変性症のため、40歳前後で視力を失った。健常者の夫(65)と2人暮らし。求職中の長女(32)に代わり、放課後の孫の世話をしていた。

 玄関を出ると、大津波警報の発令を知らせる放送が聞こえた。ほどなく戻った長女の車で夫と学校へ。孫を乗せて日和山に向かったが、渋滞で断念し、学校に引き返した。

 学校には既に大勢の住民が避難していた。「寒いから」と近くに止めた車中にいた。

 しばらくして長女が異変に気付いた。「皆が体育館に逃げてる。水がすごい」。膝まで水に浸かって校舎に移動しながら「津波なんて半信半疑だった。水は音もなく来たんだ」と思った。

 水かさは増し、学校は孤立状態に。1300人が避難し、廊下にも人があふれた。「人が多くて杖もつけず歩くことができない。トイレに行くのもままならずつらかった」。携帯電話は通じず、同室の人のラジオが唯一の情報源だった。

 学校を出たのは地震から3日後の14日。水が引かず、土手に渡した幅30センチの板を歩いて脱出した。

 土手に上がると、非常事態を告げる無数の音が、一斉に耳に飛び込んできた。救急車のサイレン、ヘリコプターのプロペラ音、飛び交う無線の声…。「とんでもないことが起きた」と実感した。

 知人宅などを経て4月下旬に自宅に戻った。ふすまは床上70センチまで水の跡が残る。足元はぬかるみ、衣類や音声パソコン、点字板一式は泥水に漬かっていた。日本盲人福祉委員会(東京)などが設置した視覚障害者支援対策本部宮城県本部から、点字版や日用品の支援を受けて生活再建を図る。

 越中さんは「市から安否確認や福祉避難所への誘導はなかった。避難先で同じ障害の人同士でいられれば心強かったし、助け合えたと思う」と振り返った。



【聴覚障害者/避難呼び掛け、気が付かず】

 名取市閖上の無職渡辺征二さん(70)は、海岸から1キロ離れた自宅で、妻勝子さん(66)と息子(41)家族の5人で暮らしていた。渡辺さんと勝子さんは、ともに耳が聞こえない。

 地震発生時、渡辺さんは自宅で昼寝をしていた。大きな揺れで目を覚まし、部屋の中を見ると、テレビやテーブルが倒れてきた。

 普段からインターネットは使わず、テレビを見る習慣もない。地震に関する情報はこれまで、手話で家族から得ていた。当時、勝子さん以外の家族は出掛けていた。テレビのスイッチを入れても、停電で映らない。地震や津波の情報を得られないまま、家の中の片付けに取りかかった。

 地震の後、閖上地区では消防団が広報車を走らせ、住民に津波からの避難を呼び掛けていた。渡辺さん夫婦は屋内にいたため、気が付かなかったようだ。

 午後3時半ごろだった。近くに住む兄の敏正さん(73)夫婦が血相を変えて駆け込んできた。慌ただしく手を動かし、メッセージを送ってきた。「何やっているんだ。津波が来るぞ」

 屋外に出て海を見た。初めて事態の深刻さを知った。黒い波が迫っていた。兄は車に渡辺さん夫婦と近所のお年寄りを乗せ、避難所の閖上中を目指した。

 道路は狭く、渋滞していた。津波はどんどん迫ってくる。走って逃げる人もいた。兄は波に追いかけられながら、車を走らせ、仙台東部道路の名取川橋にたどり着いた。橋の上から見えたのは、渦を巻いた真っ黒な波が、車、船、電柱、松の木を押し流す恐ろしい光景だった。

 家族は無事だった。家は津波で流され、6日後に約200メートル離れた場所で見つかった。

 渡辺さんは閖上で生まれ育ったが「津波が来るとは思わなかった」と言う。震災当日は、普段は何かと気遣ってくれる近所の人が、訪ねて来なかったし、出入りする気配もなかった。後日、近所の人たちが大勢亡くなったことを知った。

 渡辺さんは「耳の聞こえる人たちがたくさん亡くなった中で、聞こえない自分たちが助かったのは、兄のおかげ」と語った。(佐藤素子)







【避難所にマッサージで恩返し 大船渡の荒熊夫妻】

2011年4月22日 岩手日報

 「2人で今できることをやろう」。東日本大震災で被災した大船渡市盛町のくまさん治療院の荒熊稔さん(54)、由枝さん(49)夫妻は、避難する地元の市民交流館カメリアホールで他の避難住民にマッサージのボランティアを行っている。目が不自由な2人。慣れない避難所生活を送る中、暗がりで手を貸してくれる人もいた。清掃や食器洗いなどの手伝いはできないが本職で仲間を癒やし、避難所に欠かせない存在になっている。

 昼下がり、カメリアホールの和室。高齢者2人が稔さんと由枝さんから肩や足のマッサージを受けた。「何回もやってもらっている。気持ちいい」。震災直後から避難生活を送る佐藤鉄雄さん(90)は目を細めた。

 地震発生時、夫妻は長男大輔さん(18)と盛駅に近い治療院にいた。治療中に揺れを感じ、大輔さんの指示を頼りに避難した。同市三陸町の小石浜地区にある自宅は大津波に流されたのに加え、この治療院も1階が浸水。同ホールで家族4人の避難所暮らしを始めた。

 明るい場所ならばぼんやりと光景を把握できる2人。当初は停電が続き、夜はろうそくの明かりだけ。慣れない環境は大変だったが、そんな中、通路で手を差し伸べて導いてくれる住民がいた。

 避難者同士で清掃や食事の後片づけを担う中、2人はもどかしい思いをしていた。避難生活が1週間を過ぎたころ「マッサージしかない」と今できることに行き着いた。これまで約60人に施術した。

 かつて漁業に従事していた稔さん。20代半ばで難病のベーチェット病を患い、入退院を繰り返した。盲学校ではり・きゅうなどを学び、由枝さんと知り合った。治療院は1995年に開院した。

 今は治療院の修繕を進め、治療用ベッドを調達する見通しも立った。2階に住居を構え、早ければ5月の連休明けにも治療院を再開できそうだ。

 「まだやらないの?」。なじみの客から5、6件ほど電話があった。「ありがたいことです」と稔さん。避難所生活は間もなく終わりそうだが、休診日はこの避難所に来てマッサージをやろうと考えている。




【震災生活ドキュメント 視覚障害者、ご近所が支援】

2011年4月21日 読売新聞

 東日本大震災で被災した住民の中には、視覚障害者もいる。地域の住民に生活を支えられているケースも多いという。視覚障害者の支援団体では情報提供を呼びかけている。

 宮城県塩釜市に住む、ともに全盲の高橋末雄さん(68)とサエさん(68)夫婦は、3月11日、大津波警報を聞き、白杖(はくじょう)のほかは荷物もほとんど持たずにアパートの外に出た。住民が夫婦の手を引き、近くの小学校の体育館に連れて行ってくれた。

 ここで6日間過ごしたが、問題はトイレ。「つえを使っても邪魔になるし、かと言って、連れて行ってもらうのも気が引けて」と高橋さん。

 見かねた住民が、トイレの近くのスペースを確保してくれた。自治会の会長らが市と交渉してくれ、福祉施設への移動が実現した。地元の災害ボランティアが病院、理髪店などに付き添ってくれた。

 アパートに大きな被害はなく、3月下旬から戻って暮らしている。4月7日の余震で断水と停電が起きたが、災害ボランティアが給水車から水をくんできてくれたり買い物をしてくれたりしたという。

 「余震が多いので心が休まりません。ただ、避難所暮らしでこれまでつきあいのなかった地元の人と知り合いになれた。人生の財産です」

 今回の震災では視覚障害者の被災状況は分かっていない。視覚障害者の団体などでつくる社会福祉法人日本盲人福祉委員会(東京)では3月下旬に支援対策本部を設置。岩手、宮城、福島の3県で、点字図書館の利用者など約2400人について、自宅に電話したり避難所を訪問したりして安否や所在を確認している。白杖や携帯ラジオ、音声時計などを提供し、ほかに必要な支援がないかも確認している。近所づきあいが盛んな地域だけに、地元住民に支えられているケースも多いという。

 ただ、周りの人が視覚障害者だと気づいていないケースもある。また、点字図書館などを利用していない視覚障害者は、被災の状況把握や支援はさらに難しい状況だという。

 同本部事務局長の加藤俊和さんは「目が不自由そうな人がいれば、声をかけてほしい。そのうえで、本人の了解を得て、委員会へ連絡をしてください」と話す。委員会の現地対策本部の連絡先は090・1704・0437。



【東日本大震災:視覚障害者に支援届かず】

2011年4月20日 毎日新聞

 東日本大震災で津波に襲われた宮城県沿岸部の視覚障害者のほとんどが、満足な支援を受けられない状況になっている可能性が高いことが、社会福祉法人「日本盲人福祉委員会」の現地調査で分かった。県が個人情報保護の観点から、支援団体に氏名や住所などを提供していないためで、多くの視覚障害者が震災で失ったつえや音声パソコンなどの補助機器を補充できないまま、避難生活を強いられているとみられる。

 県などによると、石巻市や名取市など沿岸部13市町には全盲などの重度視覚障害者は約1250人。一方、日盲委が把握している視覚障害者は、日本盲導犬協会や旧点字図書館の利用者名簿などから抽出した約280人だけ。震災後、日盲委が設置した東日本大震災視覚障害者支援対策本部が、安否確認や支援の目的で県に障害者リストの提供を求めたが、県は「個人情報なので出せない」と拒んだ。

 対策本部のメンバーは280人のリストを頼りに自宅や病院、300カ所近い避難所を歩き、地震から1カ月以上過ぎてようやく計2人の死者と行方不明者を除くほぼ全員の生存を確認した。この間は安否確認に手間取り、継続的支援や他の障害者の捜索はできなかったという。

 280人の中の一人、全盲で左耳が聞こえない気仙沼市の阿部勇吉さん(85)は家族と避難所にいた。情報源のラジオと補聴器を失い、外界との接点はわずかに聞こえる右耳と家族の言葉に頼るしかない。前立腺がんのためトイレに通うにも介助が必要だが、避難所の職員や看護師は阿部さんに障害があることは知らなかった。

 同市の全盲の女性(53)は独居で、地震後に知人に連れられ避難所にたどり着いた。直後に家は津波で全壊し、つえや文字読み上げ装置など生活必需品すべてが流された。1カ月以上がたった17日にメンバーが訪れるまで、満足な介助を受けられないまま1人で暮らしていた。

 多くの障害者は着の身着のままで避難したといい、必需品の音声パソコンやラジオを失い、必要な情報が得られていないとみられる。県は沿岸部13市町の残り約1000人の支援状況を確認しておらず、生活が改善されない懸念もある。県障害福祉課は「障害者手帳を持つ人すべてに支援が必要とは限らず、必要なら要請があるはず。個人情報に当たるリストは提供できない」としている。

 対策本部宮城県コーディネーターの原田敦史さん(39)は「本来優先すべき社会的弱者の支援が後手に回った阪神大震災の教訓が生かされていない。宮城県は早く情報を提供してほしい」と話している。

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