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2011年6月27日 (月)

三陸物語

毎日新聞にて6月14日~25日にかけて掲載された

「三陸物語」の記事をご紹介させていただきます。

岩手県大槌町の全盲の鍼灸師・藤原正さんの体験談です。



「三陸物語」

 町を破壊し、通信も途絶させた大津波。

「情報障害者」と呼ばれる視覚障害者の心の目に、それはどう映ったのか。

「偶然が重なり、生かされた」

2011年6月14日

「偶然が重なり、生かされた」。

全盲の鍼灸(しんきゅう)師、藤原正さん(53)は幾度も繰り返した。

岩手県大槌町の自宅兼鍼灸院は海から100メートル弱の距離にあった。

最初の偶然は、娘が家に居合わせたことだった。



3月11日。

診療を終えて治療室のベッドで横になっていたら、

突き上げるような縦揺れに横揺れが続き、落ちそうになった。

棚や机から空気清浄機やラジカセやパソコンが落ちる音がして、

消毒用の洗面器がひっくり返って床をぬらした。



目は見えなくても、音や触覚で状況は「見えた」。

台所で食器が割れる様子も壁越しに分かった。



妻と長男、娘3人の6人家族。

長男は盛岡の専門学校生。

妻は近くの温泉施設でマッサージの仕事中だった。

娘3人は午前授業で、昼食の後に高2(当時)の長女は外出し、中2(同)の双子姉妹は居間にいた。



「大津波では、必ず引き波あっから」。

町内に住む母親(76)は常々、

孫に藤原家の1階が波につかった1960年のチリ地震の津波の話を聞かせていた。

それを思い出した時、三女の声がした。

「側溝の水、全然ねえっけ。底見えるっけ」



「逃げっぞ、準備しろ」。

娘2人に声を掛け、長女に携帯電話で「家に戻れ」と命じ、

ジャンパーを着て雨戸を閉める。階段や廊下には物が散乱していた。

通帳や印鑑を入れたバッグを拾い上げ、床に落ちたラジオは手探りで見つけた。

娘2人と玄関に鍵をかけていたら、長女が自転車で戻ってきた。



午後3時過ぎ。

津波到来まで約10分という時間だった。

母と妻は藤原さんの身を案じ、自宅に急いでいた。



裏通りで「お母さーん」

2011年6月15日

大津波が迫る岩手県大槌町。

携帯が不通で妻美幸さん(43)、母久子さん(76)と連絡が取れないまま、藤原正さん(53)は避難を決めた。

長女幸乃さん(16)と三女美代乃さん(14)が自転車で先に荷物を運び、

藤原さんは次女知代乃さん(14)の肩につかまって後を追った。



「生死を分けた偶然」の二つ目はここで生まれた。

一家は津波の避難先を「おばあちゃんの家」と決めていた。

しかし、藤原さんは娘たちに地域の避難所である高台の寺の名を告げた。

何かを考えた末の決断ではなく、「とっさの思いつき」だったという。

だが、結果的におばあさんの家は津波にのみ込まれた。



歩き始めると、避難を呼びかける防災無線が聞こえたが、

周囲は普段よりも静かに感じた。



三つ目の「偶然」は、分かれ道で生まれた。表通りか裏通りか。

藤原さんはここでも「思いつき」で裏通りを選択する。



同じころ、夫の身を案じた美幸さんは自転車を走らせていた。

娘が家にいるのを失念していた。

そして、普段使う表通りから裏通りにハンドルを切る。これが「四つ目」だ。

美幸さんは弱視で、離れると人の顔がはっきり見えない。

「地震で人が道に出ていて、ぶつかると危ないと思ったから」という。



知代乃さんと一緒に逃げる藤原さんと、美幸さんの自転車はJR大槌駅近くですれ違った。

藤原さんは見えず、美幸さんは弱視に加えて余震に気を取られていた。

遠ざかろうとした時、知代乃さんが声を上げた。

「あれっ? お母さーん」。

美幸さんの生死を決した瞬間だった。



今度は知代乃さんが自転車で先行し、夫婦で歩く。

その時、聞こえた。「サーサー」という波打ち際のような音。

津波の第1波は、堤防を越えて駅の近くに迫っていた。



よみがえるチリ津波

2011年6月16日

 岩手県大槌町の海岸近くの鍼灸院兼自宅から

全盲の藤原正さん(53)が妻子と避難している時、

母親の久子さんは2キロほど内陸にある家から鍼灸院に向かって走っていた。

「40分のウオーキングが日課」とはいえ、齢(よわい)76。

老いても我が子を案じる母の底力である。



地震の最中に久子さんは藤原家に電話したが応答がなく、

揺れが収まるとすぐに運動靴で駆け出した。

普段は車で行くが、「渋滞に巻き込まれると直感した」という。



久子さんの記憶には、1960年のチリ地震の津波が刻まれている。

当時は鍼灸院の場所に住んでいたが、「津波で打ち上げられた船が家の柱にぶつかった」。

情報も少ない時代のはるか南米から押し寄せた津波である。

「地震ねえのに津波ねえべ」。

近所のお年寄りが井戸端会議していると漁師が津波の襲来を告げ、

久子さんが荷物を持ち、2歳3カ月の藤原さんを祖母がおんぶして逃げた。



あれから半世紀。

久子さんが走り続けて道半ば、予想通りに橋は車で渋滞し、住民がこちらに逃げて来る。

行くべきか、行かざるべきか。

胸をかきむしるような苦渋の末に、彼女は引き返す。

「亡くなった夫が引き留めてくれたんだと思います」。3カ月後の感慨だ。



不思議なことに、

妻の美幸さん(43)に導かれて避難する藤原さんの脳裏にも、

幼心に刻まれたチリ地震の記憶がよみがえっている。

「ばあさんにおぶさって逃げる記憶だけがなぜか生々しく浮かんだ」というのだ。



目が見えずとも、ざわめき出した町の様子が伝わってくる。

先ほどまで静かだった表通りを「ビュンビュン」と車が疾走する。

道ばたの酒屋ではバタバタと人の動く気配がして、

落ちて割れた一升瓶から酒のにおいが立ち上っていた。



周囲は混乱「理解できず」

2011年6月17日

家を出てから避難先の寺院まで約1キロ。

妻美幸さん(43)の肩につかまって避難していた藤原正さん(53)は、周囲の変化を感じ取った。

「子供が遊びさ行って帰ってこねえの」と言う女性の声は心配そうで、

表通りを疾走していた車の音は次第にやみ、渋滞が始まったことが分かる。



十数分で寺に着き、先行した娘3人と本堂の軒先で立ち話をしていたら

「瓦落ちて危ねがら、中さ入って」と促され、畳の部屋に腰を下ろした。



悲鳴が聞こえたのはその直後だ。

避難した人々が窓際に集まる気配がし、「きゃー」「わー」と言葉にならない声がする。

わけが分からずきょとんとしていたら、

「すぐ下の小学校に津波が押し寄せ、家や車が流れてきた」というではないか。



「ここも危ねがら、上さ逃げっぞ」。

男性の声に外に出ると、「ザザザザー」という音が聞こえる。

津波は山門の近くまで押し寄せていた。



一家で墓所を駆け上がって息を整えていたら、

三女の美代乃さん(14)が驚いたように言った。「みんな海だ」。

藤原さんが首をかしげて問いかける。

「うちは?」「ない」

「駅の向こうだぞ」「知ってるし。みんなないって」。

そんな会話を記憶する。

藤原さんには「何が起きたか、さっぱり理解できなかった」。



焦げ臭さを感じたのも同じ時だ。

「火事だ」と叫ぶ声がそこここで上がる。

津波で流れ出した油に火がつき、倒壊家屋に燃え広がっていたのだが、

寺の下で起きていることを思い描こうとしても、頭がついていかなかった。



「上さ逃げっぞ」「道あんのか」。そんなやりとりが聞こえ、避難を始める。

靴底に感じる「道なき山」。

「右はがけだから、後ろから来て」という妻の声に、両肩に両手を置き恐る恐る足を踏み出した。



暗幕巻いて、肩寄せ合い

2011年6月18日

 津波に火事が重なり、1600人余りの死者・行方不明者を出した岩手県大槌町。

藤原正さん(53)が妻子と山を越えて町西方の城山の体育館にたどり着いたのは、たそがれ時だった。



この間の彼の記憶は断片的だ。

山の斜面に幾度も足を取られ、尾根では寒風に歯を鳴らし、

津波で町がどうなったのか状況がほとんどつかめずに頭が混乱していたそうだ。

「見える人は目でとらえ、見えない人は心でとらえる」とは藤原さんの解説。

彼は途中で会う人ごとに問い掛けた。

「どこまで津波が来たのか」「家や車はどうなった」「火事はどこで起きているのか」。

それをモザイクのように重ねてイメージをまさぐった。



体育館は「人の気配」が満ちていた。

床に座って周囲から町の情報を仕入れ、ラジオで東日本の被災状況を知る。

夜になって娘たちが「窓の外がオレンジ色だ」と教えてくれた。

街の火災がガラスに映るらしい。

じきに「まずいんでねえか」とのささやきが広がり、

町の職員が「車の人は別の場所に移動してください」と告げた。

「車ねえ人」は「待機」になった。



夜の深まりとともに寒さも増す。

誰かが体育館の暗幕を切って、「みんなで巻いてください」と配っている。

それを手に体育館2階の椅子席に上がると、女性が歯を鳴らしながら訴えた。

「死ぬとこだったの」。

聞けば、「車で走行中に津波に流され、警察官に窓を割って引きずり出してもらい、後は泳いで助かった」という。

服はずぶぬれで、油のにおいが染みついている。



妻の美幸さん(43)が役所の人に掛け合って毛布を調達し、彼女に渡す。

そして、藤原家の5人と長女の友達とその女性の計7人が、

肩を寄せ合い1枚の暗幕をみんなで巻いて夜を越した。



肌に迫った燃えさかる町

2011年6月21日

 寝ずに明かした津波の夜、藤原正さん(53)の心眼に映った風景は音と言葉が醸し出した。



「東京の○○です。××さん大丈夫ですか」。

ラジオの声には、外の世界の人の息遣いを感じた。

赤ちゃんの泣き声も心に染みた。「あれは双子だね」と妻の美幸さん(43)。

双子の次女知代乃さん(14)と三女美代乃さん(14)が反応する。

「抱いてるのお母さんとばあちゃんかな」



母久子さん(76)の自宅の電話と携帯にかけ続けるがつながらず、心配していると

顔見知りのタクシー運転手がやって来て

「お前のお袋、大槌高校にいだよ」と教えてくれた。ほっとした。



未明には、さすがに腹が減った。

美幸さんが津波当日に「食いっぱぐれた」というおにぎり1個と、

娘が家から持ち出した非常用の乾パンとスナック菓子を分け合って食べ、

「うめえな」と小さな歓声を上げた。



日が昇り、体育館の外に出たら、近所の薬局の男性がいた。

「どうなった」「家無いっす」

「うそだべー」「何もないっす」。

その時、「ボー」という音がして「バキバキ」「メリメリ」「ガラガラ」という音が続いた。

100メートルほど山を下った場所が炎上しているという。肌に熱を感じる。



燃えさかる家の2軒隣で、女の人が「助けて」と叫んでいるらしい。

周囲に海水がたまり、逃げ道がない。

「ヘリ来っから頑張れ」。誰とはなしに声を掛ける。

「危険だから中に入って」と言われ、後ろ髪を引かれる思いで体育館に戻った。



逃げ遅れた女性のその後が気になって、ぼうぜんと椅子に座っていたら、

いとこの男性の声が聞こえた。「わー、いだ」。涙声だった。

思わず、みんなで泣いた。

そして、久子さんも無事に親戚の家に避難したと聞いた。



妻の腕を借り、ボランティアへ

2011年6月22日

津波に続いて火災に襲われた岩手県大槌町。

雪が降った15日未明まで火勢は衰えなかった。



いとこの車で避難所の体育館を出た藤原正さん(53)とその家族が、

被災を免れた町内の親類宅に着いたのは、津波の翌日の12日朝だった。



避難所で一緒に暗幕にくるまった女性には事情を話し、乾パンを置いてきた。

避難所には娘の先生もいた。

「背広だけで寒くないの」「年寄りが寒がっていだったから、ジャンパーやりました」。

妻とのそんな会話が聞こえた。

藤原さんは自分のジャンパーを脱いで、先生に差し出した。



身を寄せた「石井家」では、母久子さん(76)が涙を浮かべて待っていた。

夫婦2人の家に藤原家の5人と久子さん、そのほかの親類縁者を含め最多で11人が世話になった。

親戚同士とはいえ、一家丸ごとずっと世話になるのはさすがに気が引けた。



一番困ったのは、藤原さんの目が見えないことだった。

トイレに行くにも妻子の手がいる。部屋の配置が分からないからだ。

そこで、15日から床掃除を買って出た。ぞうきんでふきながら家の見取り図をイメージした。



「ほかに何かオレたちにできることはないか」。夫婦で相談したのも15日。

「やれることは鍼灸(しんきゅう)とマッサージ」との結論に至り、

「避難所でボランティアやっぺ」と決めた。

とにかく、世話になっている石井家に朝から晩までいるのは気がとがめた。



16日朝、ズックを履いて一家5人で避難所になっている県立大槌高校に出かけた。

100メートルほど歩くと、がれきの海が広がり、汚泥に運動靴を取られ、何度も滑りそうになった。

道は重機で急ごしらえした補給路だけ。

妻美幸さん(43)の腕を借りて歩く藤原さんのすぐ脇を、自衛隊や消防の車両がかすめて行った。


心も体も、こわばって

2011年6月23日

 見えぬ故に津波の惨状を測りかねていた藤原正さん(53)がそれを体感したのは、はりとマッサージのボランティアのために避難所の大槌高校に通う道すがらだった。



山際まで押し寄せたがれきや汚泥。漁師が使うブイに足をぶつけた時は驚いた。

まちの姿が頭の中にあった地図とは全く変わってしまっている。

普通なら7分で着くはずの大槌高校まで20分以上かかった。



避難所になった体育館のステージに、授業で使うマットを敷き、

初日は妻美幸さん(43)と2人で15人ほどマッサージした。

足元がおぼつかない高齢者が多く、娘3人が手を引いた。

暖房もなく、寒さに震えながら服の上からもんだ。



5月いっぱいボランティアを続け、数百人の心と体に触れた。

「避難しよう」と車で迎えにきた娘と孫の声に、2階から顔を出したおばあちゃん。

その眼前で津波が車をのみ込み、自分も家ごと流され、気が付いたらがれきの下だったと吐き出すように語った。娘と孫は戻らなかったという。



津波で流れる家の2階で手を振る人の姿が脳裏にこびりついたおじいさんもいた。

「あれは、助けてという意味なのか、お別れのさよならなのか」と自問していた。



津波から逃げようとした中年の女性は、年老いた男女に「助けて」としがみつかれた。

濁流が間近に迫る。

「私、ふりほどいて走ったんです。後ろを見たら、2人はもういなかった。手の感触が腕に残っています」。

藤原さんはその腕をひたすらもんだ。



「誰も泣かず、高揚した口調で、人ごとのように話し続けるんです」。

藤原さんの感想は、震災直後の被災地の様子を知る人や、私自身も感じたことだ。

「硬直した体」に触れながら、藤原さんは津波が人々の心に残した傷を感じていた。



被災者の思いにも向き合って

2011年6月24日

 避難所になった大槌高校に通い、被災者にはりとマッサージのボランティアを続けながら、

藤原正さん(53)は自問した。

「硬さをどこまでほぐしていいものか……」



かけがえのない人々や住み慣れた家を失ったうえに、衣食住にもこと欠く避難所暮らし。

喪失感や悲しみを抱え将来の不安におびえる様子が、体や脈のこわばりとして指先に伝わり、

「ほぐし過ぎると、生きようとする心まで折ってしまいそうに思えた」からだ。



悩んだ末、藤原さんは考えるのをやめた。

「自分が何とかしてやろうという気負いを捨て、まずは自らの心を穏やかにして、相手に向き合おう」と。

結果、施術のひと時はみんなの吐き出しの場になった。

体裁を脱ぎ捨て、男性も女性も思いの丈を言葉にした。


 藤原さんが往診を再開したのは6月に入ってからだ。

「はりを打ってほしい」となじみ客が藤原さんの行方を捜し、避難先の石井家にたどり着いた。

鍼灸(しんきゅう)の器材は流されたが、全国の鍼灸師仲間から支援物資のはりが届いた。



仲間との絆をつないだのは盛岡の専門学校で鍼灸を学ぶ長男真太郎さん(19)だ。

被災翌日に友人の車で大槌に入り避難所を回った真太郎さんは、一時は家族の死を覚悟した。

13日にたまたま避難所に顔を出した祖母久子さん(76)と再会し、

一家が身を寄せる石井家にたどりついて家族の無事に号泣した。



「学校をやめる」。

親を案じ、そう言い出した真太郎さんを、藤原さんは妻美幸さん(43)と説得した。

そして、新潟と茨城にいる藤原さんの妹や鍼灸師仲間に無事を伝えるよう頼んだ。



新潟の妹一家が車で駆けつけたのは3月20日。

同じ日、鍼灸師仲間から届いた支援物資を満載した車も来た。真太郎さんが乗っていた。


オレは生かされている

2011年6月25日

 晴眼者は視覚で世界を見つめ、盲人は聴覚や触覚で見つめる。

中途失明の藤原正さん(53)は両方の体験者である。



高2の冬、朝起きたら世界がかすんで見えた。

緑内障と白内障の手術、入院を繰り返し、留年。疎外感を感じ、「生きる意味」を見失った。



21歳で盲学校に入学。

視覚障害の仲間と出会い、「心を閉じた自分」に気付く。

卒業後、仙台の鍼灸室に就職。26歳で完全に失明したが「ありのままを受け入れた」。

同年、大槌町に戻り鍼灸院を開業。32歳で美幸さん(43)と結婚した。



津波の後、藤原さんは幾度も被災者に「生きてていいんだべか」と問われた。

「いいんですよ。オレは、生かされているんだと思っています」と答えた。

大切な人を失った悲しみもあれば、失った家や財産に執着する悲嘆もあった。

「『受け入れること』の大切さと難しさを痛感した」と藤原さんはいう。



藤原さん自身にも気付きがあった。

はりのスペシャリストを目指し、指を痛めやすいマッサージはやらないと決めていたのに、

震災直後の避難所にはりがなく、仕方なくマッサージをした。

だが、困り果てた被災者と向き合ううち

「自分のこだわりよりも、苦しんでいる相手の心と体を第一に考えなくてはいけないと思うようになりました」。


 茨城や新潟の妹の家に避難していた母親の久子さん(76)も先日、

一家の避難先の石井家に合流した。じきに仮設住宅に越して、新しい生活が始まる。



藤原さんは言う。

「津波以来、かけがえのないものは何かと考えました。

家族と仲間と自分の命だと思います。オレはできることからやっていきます。

食うことや寝ることや働けることに感謝しながら、一日一日を生きていこうと思います。」


【記事:萩尾信也】

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