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2011年7月15日 (金)

三陸物語:視覚障害の兄妹・中村亮さん、三三子さん

毎日新聞に連載中の三陸物語。

今回は6月28日~7月8日まで連載された

岩手県釜石市の鍼灸師 中村亮さん、三三子さん御兄妹 の体験談をご紹介します。



三陸物語:

東日本大震災 視覚障害の兄妹・中村亮さん、三三子さん



避難の数十秒後に津波

2011年6月28日 朝刊

 鍼灸(しんきゅう)師の中村亮(りょう)さん(57)と妹の三三子(みみこ)さん(55)。全盲と弱視の兄妹が2人で住んでいた岩手県釜石市の治療院兼自宅も、津波に襲われた。

 中村治療院に津波が達した瞬間を隣の写真館の菊地信平さん(63)が撮影していた。

3月11日午後3時22分のことだ。

写っている男性は直後に津波に巻き込まれ、建物の内部に押し込まれたが、

神棚につかまって天井とのわずかのすき間で息を継いで生還。

女性は治療院の外階段を駆け上がって、一命を取り留めた。


 36分前の地震発生時。

亮さんは1階の治療院でパソコンをいじっていた。

ストーブにかけたやかんを右手で持ち上げ、左手で柱につかまって踏ん張ったことを記憶する。

パソコンが倒れ、ビンが流しに落ちるのは音で分かった。


 一方、三三子さんは歩いて10分のスーパーで買い物中に地震に遭い、家に急いだ。

普段は信号の音を聞いて交差点を渡っていたが、この時は停電で音がしなかった。


 揺れが収まり、中村さんが居住スペースの2階に上がると、家具はすっかり位置を変えていた。

上着を着て1階に下りたところに、三三子さんが帰宅。

「逃げよう」と告げて携帯ラジオを取りに2階に戻り、スイッチを入れると現場中継が飛び込んできた。

「津波が今、釜石港の防潮堤を越え、車をのみ込みました」。

治療院は港から600メートル。血の気が引いた。


 白杖(はくじょう)をついて路地に出たら、隣組の女性2人の声がした。

「待ってたの、一緒に逃げっぺ」。

一人が荷物を持ち、もう一人が中村さんに腕を貸し中村さんが三三子さんの手を引いた。


 写真はその数十秒後に撮影された。

長きにわたる「見えない避難生活」の始まりを切り取った一枚である。


ぼうぜんと廃虚をみつめる人々

2011年6月29日 朝刊

 「向こう三軒両隣っていうじゃない。津波の時に頼れるのは、遠くの親類じゃなくて近くの他人よ」。

岩手県釜石市の鍼灸(しんきゅう)師、中村亮(りょう)さん(57)と妹三三子(みみこ)さん(55)の隣に住む女性(63)の言葉だ。

他の「ご近所さん」と一緒に、目が不自由な兄妹の避難に手を貸した。


 「津波が来たぞ!」

3月11日午後3時20分過ぎ、隣組の女性に手引きされて避難する兄妹の背後で、

男性の切羽詰まった声がし、続いてビルの屋上に逃げた人々の叫び声が降り注いだ。

「逃げろ!」「走れ!」。

中村さんの頭には「死がよぎった」という。


 なんとか逃げ延び、向かったのは中村治療院から5分足らずの小学校跡地。

校庭には人の気配が充満していた。毛布1枚を手渡されて地べたに腰を下ろす。

余震が続き、寒さも身に染みた。

そこで目と鼻の先の高台にある寺を目指したが、がれきで道がふさがれている。

迂回(うかい)し、山道を30分近くかけて町を一望する寺の境内にやっとたどり着いた。


 目の見えない中村さんの心に最も印象的に刻まれたのが、その時の情景だ。

境内には当時200人近くが避難していたが、

「妙に静まり返り、ぼうぜんとして廃虚をみつめる人々の姿が浮かんだ」という。

静寂の中でドラム缶のたき火がパチパチと音を立て、知人の男性のため息が耳に届いた。

「ああー、おらほの家つぶれて、鉄筋の中村さんの家は残ってら」


 日暮れとともに寒さが増し、一緒に避難したご近所さんに促されて寺に上がった。

「見えない人いっから、部屋さ入れてもらうべ」と20畳ほどの部屋に案内される。


 そこが、当面の中村兄妹の避難所になるのだが、2人にとっては未知の空間。

「見える人が真っ暗な世界に放り出されたようなもの」だった。


一番困ったのはトイレだった

2011年6月30日 朝刊

 人は視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚の五感でこの世界を認識する。

目の見える人は、五感で得る情報の約8割を視覚に依存すると言われるが、

見えない人は視覚以外の感覚を使う。

とはいえ、使い慣れた建物や道ならまだしも、

視覚障害者にとって初めての場所は「晴眼者が闇の中に立たされたようなもの」だ。


 岩手県釜石市の町を津波が襲った3月11日。

隣近所の女性2人に手引きされて高台の寺に逃げた鍼灸(しんきゅう)師、中村亮(りょう)さん(57)と妹三三子(みみこ)さん(55)。

腰を下ろした畳部屋は、人いきれが立ちこめていた。

全盲の亮さんは話し声や音の反響具合から「30人以上が肩を寄せ合っていた」と記憶するが、

それは居合わせた晴眼者の記憶と一致する。

午後10時過ぎには横になったが、寝返りも難しかった。


 「何が一番困りましたか」。

後で亮さんに尋ねると、「トイレ」と即答した。

午後7時過ぎには尿意を催したが、我慢し続けた。

弱視の三三子さんも夜の歩行は不得意で、他人の手を煩わせることにためらいを覚えたからだ。

しかし夜半過ぎに限界に達し、亮さんはやむをえず、くだんの女性に案内をお願いした。


 彼女の肩に手を置き、寝ている人の足を踏まないようにすり足で部屋を出た。

「15歩」でトイレがあった。

人の気配がなかったので彼女が男子のほうをのぞき「真っすぐが個室、手前左に小便器」と説明してくれた。


 「トイレひとつにこれだけ不自由するのか」。

亮さんは長引きそうな避難生活を想像しながら眠れぬ夜を越した。

そして翌朝、隣組の女性2人の言葉に兄妹は絶句した。

「私たち、親戚の家に移るから」。

周りは知らぬ人ばかり。まるで大海に放り出されたような気分だった。


気に留めてくれた人がいた

2011年7月1日 朝刊

 障害を抱えた人とそうでない人が共に暮らす時、両者の間に壁をつくるもの。

それは障害者の側の遠慮と、健常者の側の「障害」に対する想像力の欠如だ。

あの大津波の直後は、被災者たちみんなが自分のことで頭がいっぱいだった。


 岩手県釜石市の鍼灸(しんきゅう)師、中村亮(りょう)さん(57)が苦労したトイレの話を続ける。

隣組の女性が寺を出た後、亮さんは弱視の妹三三子(みみこ)さん(55)の手引きでトイレに行き、

停電下の夜が来る前に小用を済ますように心掛けた。

大のほうは、貯水槽に水があった最初の数日は、くみ置きの水をバケツで流したが、

目の見えない亮さんは次の利用者に流してもらった。


 しかし水がなくなり、使用済みの紙を備え付けのビニール袋に捨てるようになって、頭を抱えた。

置き場所は時に位置を変え、袋の口が開いているとは知らずに手を入れそうになった。

結果、それがストレスになり便秘が始まる。


 食事にもこと欠いた。

2日目に本堂で炊き出しのおにぎりが配給になった時は、食べそびれた。

電気の消えた寺の中は昼でも薄暗く、弱視の三三子さん共々本堂への行き方が分からなかった。


 「トイレはこっちですよ」。男性の声が聞こえたのは3、4日後。

避難生活も少し落ち着いて、同室の人たちと言葉を交わすようになってからだ。

「炊き出し持ってきてあげる」という女性も現れた。

目が不自由なことに思いが至る人の登場だった。

「オレたちを気に留めてくれた人の存在に助けられました。

避難で手引きしてくれた女性や避難所で声を掛けてくれた人がそうです」


中村兄妹の感慨だ。


 とはいえ便秘が続き、亮さんは食欲をなくして体調を崩す。

避難生活9日目。今度は下痢が続き、38度の熱で寝込んでしまった。


青春時代の記憶と重なり

2011年7月2日 朝刊

 近くの寺に避難して9日目。

岩手県釜石市の鍼灸(しんきゅう)師、中村亮(りょう)さん(57)は下痢と高熱に苦しんだ。

「迷惑をかけたくない」と耐え忍んだが、10日目に嘔吐(おうと)し、自衛隊の医療班に点滴してもらった。

「見えないストレスで憂鬱になった」と亮さん。

その思いは、視力を失った青春時代の記憶に重なる。


 左目の視界の上に黒点が現れたのは高1の夏。柔道部の合宿中だった。

新学期には「黒いカーテン」が下がるように視野が狭くなり、「網膜剥離」と診断された。

盛岡の病院に半年入院して2度手術したが「回復不能」と言われた。


 1年間留年して高校を卒業。

「大学で地理の勉強をしたい」と東京都内の予備校に通った19歳の夏、

今度は右目の視界上部がキラキラ輝き、窓枠が曲がって見えた。

再び「網膜剥離」の診断。釜石の実家に戻り、静養した。

失明におびえて、部屋にこもってもんもんとする日々。

金魚鉢を通して反対をのぞくように、すべてがゆがんで見えた。


 9月に入院して手術。

11月の退院時には一人でなんとか歩けたが、翌年2月に再発した。

「手の施しようがない」と言われ、5月に光を失って「人生の意味」まで失ったように感じた。


 閉じた心を開くきっかけは「指先で読む点字」との出会いだ。

「教えてやる」と近所の視覚障害者が家庭教師を買って出てくれ、通信教育も受けた。

22歳で盛岡の盲学校の専攻科に入学し鍼灸の技術を学び、

栃木の治療院で修業の後、29歳で治療院を開業した。


 そして、30年近くたって津波に襲われた。

亮さんの体調は、2日ほどで回復した。

そのころは同室の人々に誘われてストーブを囲み、言葉を交わすようになった。

「じゃあ、はりを打ってもらおうかな」。男性の声が聞こえたのはそんな席でのことだ。

避難所での「出番」だった。


身障センターから迎えに

2011年7月5日 朝刊

 写真は、岩手県釜石市の寺に設けられた避難所で鍼灸(しんきゅう)師、中村亮(りょう)さん(57)が同室の被災者に使ったはりである。

小銭入れに入れて持ち歩いていた。

ツボに刺すのではなく、押したりこすったりするはりで、消毒がいらない。


 被災者の多くは肩こりや腰痛を訴えていた。

施術をきっかけに会話が始まり、亮さん、三三子(みみこ)さん兄妹を気に留めてくれる人が増えた。

とはいえ、掲示板に張られた広報や告知は、誰かが内容を教えてくれないと分からない。

視覚や聴覚に障害を抱える人は「情報障害者」と呼ばれるが、その実態にまで思いが及ぶ人はそうはいない。

多くの情報は依然として持参したラジオ頼りだった。


 兄妹の脳裏に当初からあったのが、被災を免れた市の身体障害者福祉センターだ。

障害者の機能回復訓練や手話や点字訳のボランティアを養成し、2人にとっても勝手知ったる施設だった。


 数日後、亮さんは市の職員に「センターが避難所になっていたら移りたい」と打診した。

「今それどころでねえみたいだし……」とつれない返事だった。

不満はあったが、当時は食べることにも窮する状態だったから、腹に納めた。


 10日ほどたったころ、「聴覚障害者の方はいらっしゃいますか」と男性の声が聞こえた。

じきに視覚障害も探しにくるものと期待したが、なしのつぶてだった。

数日後、「いだいだ」と声が聞こえた。

外出の介助や文書の朗読をしてくれる2人の女性ボランティアだった。

鍼灸院の常連客が訪ねてきたのも同じころ。

がれきを越えてやって来た彼女たちに、目頭が熱くなった。


 3月下旬、携帯電話が復旧し、友人に電話して身障センターの様子を見てきてくれるよう頼んだ。

ほどなく、センターの職員が兄妹を迎えに来た。友人が窮状を話してくれたらしい。

避難所生活25日目の夕刻のことだ。


行政の対応に失望感も

2011年7月6日 朝刊

 中村亮(りょう)さん(57)と三三子(みみこ)さん(55)兄妹が、

避難生活15日目に身を寄せた岩手県釜石市の身体障害者福祉センター。

障害者の集まる会議で使い慣れたバリアフリーの建物で、

「他人の手をできるだけ煩わせずに生活できる」から随分と気が楽になった。

ボランティアに被災者名簿や広報の録音を依頼することも可能になり、得られる情報量も格段に増えた。


 それだけに、「障害者のための避難場所」にセンターが指定されていなかったことには失望感を覚えた。

95年の阪神大震災の教訓から、障害者を集中避難させ、

個々の障害に配慮したサポートをする避難所の必要性が指摘されてきた。

結果、障害者向けの避難所を指定した自治体もあったが、

釜石も含めて指定に至らぬ自治体も多かった。

今回も一般の避難所に行くしかなく「不自由で肩身の狭い生活」を続ける障害者が多くいた。


 こうした行政の姿勢は津波後の障害者対応全般に通じる感がある。

例えば、市の職員が安否確認のために中村兄妹に会いに来たのは

寺の避難所からセンターに移った後だった。震災発生から半月も過ぎている。

さらに首をかしげるのは、安否確認だけで帰ってしまったことだ。


 当時、センターには車いすの被災女性と「つてでやって来た」という健常者の家族がいた。

食事は職員やボランティアや家族が作り、後に弁当になった。

「食材が不足している」と聞き、中村さんが知人に電話をして届けてもらうこともあり、

課題はいっぱいあったにもかかわらずである。


 県視覚障害者福祉協会釜石支部長を務める亮さんは言う。

「私自身が津波の避難訓練に参加せず、協会も対策を話し合ってこなかった。

 同じ事を二度と繰り返さないために、当事者から積極的に働きかけようと思う」


患者の声に背中押され

2011年7月7日 朝刊

 「陸奥の春はドンと一度にやって来る」。

私が少年時代を過ごした岩手県釜石市の小学校の恩師の言葉だ。

長い冬を耐え忍んだ桜や梅や野の花のつぼみは、黄金週間が近づくとはじけるように一斉に開花した。

鍼灸(しんきゅう)師、中村亮(りょう)さん(57)と妹の三三子(みみこ)さん(55)が

ボランティアの車に乗って、避難先の身体障害者福祉センターから被災した自宅兼治療院に通うようになったのもこのころだ。


 廃虚と化したまちの様子は肌で感じた。

異臭を放つがれきや汚泥。立ち上る粉じんは口や鼻の粘膜にまとわりつき、

津波で家が消えた一角には風と音が吹き抜けていた。

2人は頭を抱えた。脳裏に刻んでいた地図が使えない。

白杖(はくじょう)で歩く時に目印にしていた電柱や建物が消え、音を出す信号は折れ曲がっていた。

「マンホールや側溝が口を開けている」と聞かされた時は、腰が引けた。


 1階の治療院は、がれきが流れ込んで天井に穴が開いていた。

ひざ上まで津波の跡が残る2階の居住スペースは家具が散乱し、被害を免れた3階もかび臭かった。

ボランティアと泥をかき出し、使える衣類や家財道具をセンターに運んだ。


 建物は「大規模半壊」と判定されたが、鉄筋や外壁は残り、

兄妹はリフォームして治療院を再開しようかどうか迷った。

2人の背を押したのは、長年、治療院に通っている70代の女性だった。


 穏やかな日差しがほおをなめた五月晴れの日。

治療院で片付けをしていたら、突然、彼女の声が聞こえた。

「近くに来る用事があったから寄ってみたの。いつからやんの」

「準備ができたら連絡します」と返事をしたあの時、腹を決めた。


 その後、治療院に一番近い仮設住宅への入居が決まり、6月19日、センターから移った。

2人はこの時、次々と難題が降りかかることになるとは思いもしなかった。



「自活」目指し動き出す

2011年7月8日 朝刊

 中村亮(りょう)さん(57)と三三子(みみこ)さん(55)兄妹が入居した仮設住宅は、

岩手県釜石市の学校跡に建つ22棟127戸の棟割り長屋だ。

2人は新しい生活に再起を期したが、今も多くの困難に見舞われている。


 「見えないので、分かりやすい部屋にしてほしい」と希望した兄妹に、役所が用意したのは「1号棟1番」。

確かに分かりやすい角地だったが、国道につながる出入り口にあり、車の往来が激しい。

そのため、全盲の兄は家を出る時にボランティアの手引きが必須となり、

弱視の妹はゴミを出す時、棟と棟の間を手探りで遠回りしなければならなくなった。


 家はバリアフリーで電化製品が完備しているが、使用説明書を手渡されただけ。

読めない2人は頭を抱え、後日、ボランティアや私が使い方を手ほどきした。


 兄妹は常々、「他人の手をできるだけ借りずに自活したい」と口にする。

仮設でも頭や向こうずねをぶつけながら、奮闘中だ。

しかし、一歩外に出ると「未知の世界」。

買い物に行こうにも、途中の点字ブロックはもとより、近所の店自体が消失している。

バスで通い慣れたスーパーもあるが、発着を告げるアナウンスは津波以降、途絶えたままだ。

「自活しようにも難しい現実が広がっている」


 そんな思いを共有する市内の視覚障害者が、6月26日に身体障害者福祉センターで再会した。

亮さんが会長を務める市視覚障害者福祉協会の総会である。

災害時の情報伝達のあり方や障害者向けの避難所の確保の必要性が議論された。


 会の最後に亮さんは言った。

「神戸の震災後、行政も我々も人ごとのように何もしてこなかった。

 同じことを三度繰り返さないため、役所にもものを言うが、

 我々も人に頼らずに自分たちから動きたい」


【記事全文:萩尾信也】

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