三陸物語:東日本大震災 言葉に生かされた、吉田千壽子さん
毎日新聞に連載中の三陸物語。
今回は7月26日~8月6日まで連載された
岩手県陸前高田市の吉田千壽子(ちじゅこ)さん の体験談をご紹介します。
三陸物語:
東日本大震災 言葉に生かされた、吉田千壽子さん
抗がん剤の入った巾着、抱えた瞬間
2011年7月26日 東京朝刊
言葉には不思議な力が宿っている。時には人を傷つけ、時には心に光をともす。
「言葉に生きる力をもらった」という岩手県陸前高田市の吉田千壽子(ちじゅこ)さん。
がんを患う全盲の74歳が出会った言葉とは……。
陸前高田市と大船渡市を隔てる広田半島。
3月11日の激震は、小さな漁村にある自宅で病気療養中の吉田さんにも襲いかかった。
揺れの中でパジャマの上にセーターとコートを着て、ズボンをはいた。
一人で避難するのが難しい吉田さんは常々、同居の長女明美さん(45)に
「地震の時は掘りごたつの中に逃げる」と伝えていた。
明美さんが仕事で不在だったこの日、吉田さんはその通りにした。
こたつがギシギシときしみ、物がバタバタと落ちてくる。彼女の心も揺れていた。
昨夏、大腸がんで医者に「余命は長くない」と宣告され、
認知症の夫高治さん(78)と同居できなくなり、施設に預けたことを悔いていた。
「生きるも地獄、死ぬも地獄。ならばいっそここで……」
そんな思いを止めるように、彼女の脳裏に家族の顔が去来した。
吉田さんはなぜかこたつの中から手を伸ばして、床に落ちた物をまさぐった。
抗がん剤を持ち歩く巾着袋が手に触れ、それを胸に抱えた瞬間、「生きようという気持ちがわいた」という。
壁伝いに玄関に向かうと、引き戸が地震でガラガラと右左に動き、足元に何かが落ちて来た。
「これを使え」といいたげに友達が忘れていったつえが転がっていた。
それを手に表通りに踏み出そうとすると、車が猛スピードで行き交う音がして身がすくんだ。
「ママ、ママ、早く、早く」。近くで母親を呼ぶ幼子の声がする。
海の方からは「津波が来たぞ!」という絶叫と、泣き声が聞こえた。
◇「ママの家が流れた」「誰か手貸して」
2011年7月27日 東京朝刊
「津波は音も立てず、忍び寄った」。
岩手県陸前高田市広田町で被災した全盲の吉田千壽子(ちじゅこ)さん(74)はこんな言葉で振り返る。
「突然、風がやみ、叫び声や車の音が消えて静寂が広がり、暗闇に取り残されたような恐怖に襲われた」と。
静寂を断ち切るように吉田さんが隣家の奥さんの名を呼ぶと、「ママ」という返事がした。
以前、美容院を営んでいた吉田さんは、地元で「ママ」と呼ばれていた。
奥さんの手引きで、家から100メートルほどの慈恩寺に避難を始めた途端、
「メリメリ」という音がして、彼女が「ママの家が流れた」と言う。
吉田さんは「頭が白くなって、迷惑をかけられないと無我夢中で歩いた」。
しばらく行くと、奥さんが切羽詰まった声を上げた。
「そこまで船が流れて来てっから、走れない?」
吉田さんはがんの手術で痛みが残るおなかを押さえて必死に駆け出すが、
寺の山門近くでひざまで水につかり、へたり込んだ。
「誰か手貸して」。奥さんが叫び、男性が吉田さんを境内に引き上げた。
息つく間もなく、「志茂(しも)が泳いだぞ」と男性のなんとも切ない声を耳にした。
数百年続いて「志茂」の屋号で呼ばれる旧家が流され、
「ズドドーン」と地響きをたてながら土ぼこりを舞い上げる。
間髪を入れず、「ばばばば(あれあれあれ)、車が泳いでだ」と声が上がり、
境内に流れ込んだ車が「バガンバガン」とぶつかり合った。
ふくらはぎまで水につかりながら寺に駆け込むと、
「助けに行けなくてごめんね。寝たきりの年寄り避難させでだの」と、
幼なじみの和子さん(74)が声をかけてきた。
そして吉田さんの手を握り、「また津波来っから、お墓に上がろう」と、
せかすように墓地に上る坂道を歩き出した。
◇「足手まといにだけはなるまい」
2011年7月28日 東京朝刊
津波の夜は時折、雪が舞った。広田半島の突端にある岩手県陸前高田市広田町。
津波の第2波、第3波を警戒し、慈恩寺の墓地には約30人が避難していた。
目が見えない吉田千壽子(ちじゅこ)さん(74)は竹やぶの脇で、年寄り衆と肩を寄せ合って寒さをしのいだ。
「地震の時は竹やぶさ逃げろ」。
地元には伝承があった。「根っこががっちり大地をつかんで、放さない」そうだ。
とはいえ余震はひっきりなしで、墓石が落ちて「ドスン」と地響きがした。
揺れが収まると寺の庫裏に身を寄せ、大きな余震が来る度に墓地に上がった。
ヘッドランプをつけた「おっさん(和尚)」の号令一下、気心通じた住民はてきぱきと動き、
みんなで安否を確認し合った。
中には寝たきりの老人もいて、男衆が布団ごと板に乗せて庫裏と墓地を往復した。
「空が真っ赤だ」。
幼なじみの和子さん(74)が声を上げたのは、2度目に墓地に上がった時だ。
広田湾の対岸の宮城県気仙沼市の火事が雲に映っていた。
津波は寺の境内までがれきを運んできたが、床下10センチの高さで止まった。
庫裏の広さは140畳。夏休みに子供たちが「座禅会」の合宿で使う布団があり、石油ストーブもあった。
がんの手術を受けた吉田さんは、周囲が体調を気遣ってくれていることは肌身に感じた。
しかし、「足手まといにだけはなるまい」と決心し、「特別扱いはしないで」と繰り返した。
そんな気持ちをくんで、和子さんがいつもの口調で声を掛ける。
「一緒に寝っぺし」。
自宅で静養する彼女の家に毎日のように顔を出して「お茶っこにすっぺし」と誘う時のように。
吉田さんは彼女と一枚の布団にくるまり、ぬくもりを感じながらつかの間の眠りに落ちていった。
◇母の無事に、声を上げ泣いた長女
2011年7月29日 東京朝刊
3月12日、津波から一夜明けても救援は来なかった。
全盲の吉田千壽子(ちじゅこ)さん(74)が避難した慈恩寺のある岩手県陸前高田市広田町。
津波は広田半島の付け根をすべて洗い、がれきが道路や電線を寸断して、町は陸の孤島になっていた。
寺は地区の避難所だが、食料や水の備蓄はなかった。
助っ人に駆け付けたのは被災を免れた高台の住民たちだ。食材を持ち寄り、炊き出しを始めた。
消防団は屯所から海水をかぶった発電機を探し出し、電器屋の主人が分解して修理し、寺の井戸から水をくみ上げた。
助っ人の姿に被災者自身も動き出す。
崩れた家々から食べ物をかき集め、境内のがれきの撤去も始める。
「持ち場、持ち場で自分にできることをやる姿に打たれました」。
これは「おっさん(和尚)」と慕われる古山敬光住職(62)の感慨だ。
みんなの様子は、ストーブのそばで毛布をかぶって抗がん剤の苦痛に耐える吉田さんの耳にも届いた。
昨夏、がんが見つかり、11月に退院してから朝夕2回抗がん剤を飲んでいた。
虚脱感と吐き気が続く3時間は「迷惑をかけてはいけない」と歯をくいしばった。
そんな吉田さんの消息を案じ、長女の明美さん(45)は
職場のある大船渡から夜を徹して自宅に向かった。
寸断された半島の付け根で車を止め、
暗闇を携帯電話の画面の明かりを頼りに、時には腰まで水につかりながら歩を進めた。
途中、ろうそくをともす一軒の家を見つけて休ませてもらい、日の出とともに山を越えた。
そして、がれきの海を目にして「母親の死を覚悟した」。
それだけに、庫裏でお茶を飲んでいる母親の背中を見た時は
「お母さん」と声を上げ、泣きながら抱き合った。
12日午前9時半、気丈にがんばっていた吉田さんの「助っ人」の登場だった。
◇穏やかな日々が一変、激しい腹痛
2011年7月30日 東京朝刊
岩手県陸前高田市広田町の吉田千壽子(ちじゅこ)さん、74歳。
温厚で働き者の船乗りの夫高治さん(78)との間に1男1女をもうけ、美容室のママとして働いた。
花嫁たちの髪結いで引く手あまたの充実した人生が、45歳の秋に転機を迎える。
お客さんの眉を描くとゆがんでしまう。緑内障と診断され、手術をしたが視力は低下。
56歳で店をたたみ、還暦前に失明して、「見えないのが恥ずかしい」と家に引きこもった。
「迷惑をかけるから死んでしまいたい」という彼女の心に響いたのは、長男幸弥さん(49)の言葉だった。
彼は心に染みるような口調で言ったそうだ。
「お母さんは一生懸命働いてきたじゃないか。何でも前のようにしたいと思うからつらいんだよ。
これからはみんなに任せていいんだよ」
7年前には、夫が「認知症」と診断された。
症状は進行して夜中に大声を出し、徘徊(はいかい)が始まる。
テレビのボクシング番組に興奮して暴れた時、大船渡に住む幸弥さん夫婦が駆けつけた。
目の前の現実が信じられない吉田さんは、
幸弥さんから「お父さんは本心じゃないよ。病気がさせてるんだよ」と声を掛けられた。
嫁の美保子さん(49)が布団をかぶった義父の傍らで
「心配ないからゆっくり休みましょう」と言うと、「うん、うん」と返事が聞こえた。
吉田さんが夫の病を受け入れ、一歩を踏み出したのはそれからだ。
上着のポケットに水筒を入れ、毎日のように夫婦で手をつないで散歩に出かける。
近所の人たちも2人を見守り、夫婦で休憩を取る土手に顔を出しておしゃべりしたり、
総菜を手に「お茶っこにすっぺし」と家にやって来たりした。
そんな穏やかな日々が昨夏、一変した。
8月9日。吉田さんを突然、激しい腹痛が襲った。
◇闘病中、夫への自責の念
2011年8月2日 東京朝刊
昨年8月9日の午前11時ごろのことだった。
岩手県陸前高田市広田町の自宅トイレでおなかが小さな破裂音を立て、
吉田千壽子(ちじゅこ)さん(74)は猛烈な痛みに襲われた。
床に倒れて「パパ、パパ」と声を上げた。
そして、夫高治さん(78)の足音が近づくのを耳にして
いま一度「(隣家の奥さんの)嘉代ちゃんを呼んで」と声を絞る。
ほどなく2人の足音が駆け寄り、自分を呼ぶ奥さんの声を聞きながら、吉田さんは意識を失った。
地元の診療所や市内の総合病院では手に負えず、救急車で大船渡の県立病院に転送された。
知らぬ間に大腸がんが進行しており、腸が破裂していた。
8時間に及ぶ手術の末、長い昏睡(こんすい)状態が続き、9月半ばにようやく意識が戻った。
体力の回復を待ち、1カ月後に人工肛門を着ける手術を6時間がかりでした。
術後、吉田さんは主治医に
「私の体を私が知らないというのは納得できないから、包み隠さず教えてください」と尋ねている。
がんがリンパへ転移していることは、その時知った。
余命を再三問う彼女に主治医は「数年」と告げた。
11月上旬に退院。
以来、抗がん剤を朝晩2回、2週間飲んでは間を空けて再び服薬する治療を続けた。
淡々とした口調で「がんも死も受け入れている」という吉田さんだが、ひとつだけ悔いがあった。
自身が倒れてから、認知症の高治さんとの生活が難しくなり、高治さんを施設に預けざるを得なくなったことだ。
結果、退院した吉田さんは、
同居の長女明美さん(45)が仕事でいない日中は、自室のベッドで養生する時間が長くなった。
そして、抗がん剤の副作用に苦しみながら、施設に預けた夫への自責の念に駆られた。
3月11日の大津波は、そんな日々にやって来た。
◇「避難所生活が一番の薬に」
毎日新聞 2011年8月3日 東京朝刊
津波を逃れて岩手県陸前高田市広田町の慈恩寺に身を寄せた吉田千壽子(ちじゅこ)さん、74歳。
3月12日昼、大船渡市の福祉施設に勤務する長男幸弥さん(49)が安否を案じて駆けつけた。
偶然広田町にいて津波に遭い、帰れなくなった施設の通所者と職員を救出に向かう途中、
足を延ばして寺に寄ったのだ。
「みんなに助けられて、また生きてしまった」と涙を浮かべる母の手を握り、
幸弥さんは「それで良し」とひとこと声を掛けて立ち去ったそうだ。
「あの子らしいなと思いました。私の知らないところで、『よろしくお願いします』と頭を下げて回っていたと後で知り、命を大切に生きようと思いました」と吉田さん。
息子の思いは、十分母親に通じたようだ。
見えないというハンディとがんという病を抱える吉田さんが、
避難所生活で特に気を使ったのがトイレと食事だ。
トイレは、長女明美さん(45)や幼なじみの和子さん(74)に手引きしてもらい、
慣れると一人で行くようになった。
屋外に仮設トイレが設置されると、明美さんに寺の出入り口とトイレをロープで結んでもらい、それをたどって行った。
吉田さんのような人工肛門の使用者は、詰まりやすいワカメやキノコ類の食事を避ける必要がある。
そこは長女と和子さんが心得ていて、食事の度に取り除いてくれた。
津波前は自宅のベッドで一日の大半を過ごし、
食も細くなる一方だった吉田さんの顔に日増しに生気が増していった。
「遠くにあるトイレは、往復するだけで運動になった。
食事も家では涙がでるほど嫌だったけど、みんなで食べるうちに食欲が出てきた」
と吉田さんは言う。
明美さんは「避難所生活が母親にとって一番の薬になったみたいです」と解説した。
◇生と死、共存した避難先
毎日新聞 2011年8月4日 東京朝刊
吉田千壽子(ちじゅこ)さんが避難した岩手県陸前高田市広田町の古刹(こさつ)「慈恩寺」。
その位牌(いはい)堂に、不思議ないわれのお釈迦(しゃか)様が安置されている。
1933(昭和8)年3月、昭和三陸地震の大津波が三陸海岸をのみ込んだ。
復旧工事が始まって数年後、掘り起こした砂の中から出てきたのが
青銅製の「釈迦牟尼(しゃかむに)仏(ぶつ)像」だった。
くしくも釈迦の誕生日に当たる4月8日のことである。
掘り出した土建業者は大船渡の警察署に届け出たが、持ち主が現れず返却された。
処分に困って「おかみさま(いたこ)」に口寄せを頼むと、
「見つけた場所の近くのお寺に奉納しなさい」とのご託宣があり、慈恩寺に奉納された。
以来、付近の海辺には砂や砂利が大量に打ち寄せられ、復旧工事の建築資材として重宝したという。
そして、慈恩寺開創から592年後の今年。
平成の大津波は本堂の境内に押し寄せて床下で止まり、庫裏が被災者の「駆け込み寺」となった。
救援は遅々として届かなかったが、代わりに檀家(だんか)衆や地域住民が結束してことにあたった。
逃げ遅れて亡くなった人は、がれきの海から消防団と和尚が収容し、
ビニールシートにくるんで、泥に足を取られながら寺に運んだ。
犠牲者の泥は女性たちが井戸水で清め、浴衣や丹前を着せて本堂に安置。
和尚がお経を上げて供養した。
発生4日目に自衛隊が到着するまでに収容した「仏さん」は8体に上る。
「ご遺体を前にお経を上げる本堂の傍らで、たき火で暖を取る人もあれば、
手作りのドラム缶風呂につかる方もいて、子供たちの元気な声も聞こえていました。
そこには生と死がともに存在しました」。
慈恩寺21代目住職、古山敬光和尚(62)の言葉だ。
まさに仏教でいう「生死一如(しょうじいちにょ)」の営みだった。
◇「ありがとう」交わす別れ
毎日新聞 2011年8月5日 東京朝刊
岩手県の広田半島にある慈恩寺で、
吉田千壽子(ちじゅこ)さん(74)は結局、73日間の避難生活を続けた。
全盲の彼女はその日々を、においと言葉とぬくもりで記憶する。
4日目の深夜、寺のそばの被災家屋が炎上し、墓地に全員避難した。
異臭がして、炎を肌で感じた。
初めは行く末が不安で、身も心も凍(い)てついていた。
気落ちした大人たちに、生気を届けたのは子供たちだった。
卒業式や入学式は全員で祝った。
誕生日に吉田さんの長女明美さん(45)がケーキを焼くと歓声が上がった。
大きい子が小さい子に勉強を教える様子は、寺子屋のようでほほえましかった。
人のぬくもりは心で感じた。
避難以来寄り添ってくれた幼なじみの和子さん(74)が被災者を受け入れた内陸部の温泉に移ると、別の友達が付き添ってくれた。
86歳のおばあちゃんは食事の案内役を買って出てくれた。
廊下で物にぶつかりそうになった時は、足音が近づき「おばあちゃん、危ないよ」と教えてくれた。
幼い子供の声だった。
長引く避難所生活に、ピリピリした空気が流れたこともある。
そんな時はいつも寺庭(じてい)婦人(住職の妻)の洋子さん(56)の穏やかな声が聞こえ「空気が和らいだ」。
洋子さんは朝一番に起き、夜はみんなの寝顔を見て床に就く。
出しゃばらず、常に陰から支えてくれた。
そして5月23日、吉田さんを含む第1陣が仮設住宅に移った。
寺で行われた「お別れ会」。
心尽くしの刺し身が振る舞われ、あいさつでは全員が感涙しながら「ありがとう」を口にした。
「みなさんが来てくれて、こちらの方がありがたかった。」
これは涙で見送ってくれた古山敬光住職(62)の言葉。
「実家だと思ってまた来てくださいね」。寺庭婦人の言葉は胸に染みた。
「あたたかい涙」があふれる旅立ちだった。
◇「日々を大切に」目標に
毎日新聞 2011年8月6日 東京朝刊
8月3日、ねぶた祭の青森からメールで写真が届いた。
吉田千壽子(ちじゅこ)さん(74)の後ろに長男幸弥さん(49)一家が並んでいる。
長女の明美さん(45)が撮影した。
夫の高治さん(78)が入所する青森の介護施設の招待旅行。
4日には、入院中の高治さんを訪ねた。
「パパ、パパ」と吉田さんが声を掛けると、高治さんは何度も小さくうなずいていたそうだ。
吉田さんと明美さんが、岩手県陸前高田市広田町の慈恩寺から
大船渡市の幸弥さん宅近くの仮設住宅に越したのは5月23日。
吉田さんは新天地で「日々を大切に生きる」と目標を立てた。
「いつ死んでもいいように毎日を悔いなく生きたいの。
ひとつだけ望みがかなうなら、夫をみとって逝きたいな」
毎朝、高治さんが大切にしていた布袋(ほてい)様に水を供えておしゃべりする。
布袋様の隣には、寸胴(ずんどう)の花器の写真。
明美さんががれきから回収した竹の寸胴を、吉田さんがお風呂で磨き上げて高治さんの施設に寄贈した。
「夫が認知症になってから毎晩一緒にお風呂に入って背中を流していたの。
寸胴を磨いていると、なんだか夫の背中を洗っているような気がしたわよ。」
遠く離れて暮らしていても、「いつも夫を身近に感じている」という。
明美さんが仕事で留守の昼間は、毎日ヘルパーさんが来て、
食事の準備をしながら話し相手になってくれる。
晴れた日はヘルパーさんに見守ってもらい、白杖(はくじょう)をついて仮設の土手づたいに散歩する。
誰とでも打ち解ける気さくな性格だから、茶飲み友達もできた。
吉田さんはお会いする度に、「生きてて良かった」と感謝の言葉を口にした。
その気持ちが通じたのか、先日の検査で医者が「がんが落ち着いています。大丈夫」と太鼓判を押してくれた。
早速「布袋様経由」で高治さんに報告したそうだ。
【記事全文:萩尾信也】
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地元静岡新聞で吉田千寿子さんを拝読いたしました。
私は透析10年の80歳、新聞も読めるし車の運転もできる
ネットでお礼を伝えることもできる
感謝、感謝で一日、一日を大切に
ありがとう、ありがとう、
投稿: 植田寿乃 | 2023年2月26日 (日) 13時38分