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2013年7月 1日 (月)

球児指導 右目失明を克服、中畑永一さんに「育成功労賞」青森

2013.06.24 朝日新聞 地方版
 日本高野連と朝日新聞社が高校野球の育成と発展に尽くした指導者に贈る
今年度の「育成功労賞」に、青森からは弘前南の部長などを務めた中畑永一さん(68)=平川市=が選ばれた。
練習試合で右目を失明する事故を乗り越えた34年間の指導は、
何人もの球児の夏を一生忘れられないものにした。
 

旧柏木町(現平川市)生まれ。
弘前高時代は写真部で、「学校と図書館を往復するまじめな人物でした」。
大学を卒業後、1年の会社員生活を経て、両親と同じ教師になった。

 1971年、初任校の八戸水産で高校野球と出会った。当時26歳。
「若いからやれ」と言われ部長になった。選手にひたすらノックを繰り返した。
「勝てばやっぱりうれしくて」。
監督やOBの手厚い指導もあって夏の4強に上り詰めた。

 77年に転任した浪岡で監督に就き、前監督や本から野球の指導法を学んだ。
「出れば負けのチーム」が、79年の青森大会2回戦で、その年春の県大会優勝の青森商を破った。

 試合前、緊張をほぐすために、選手に「勝てると思うな」といった。
1回に、2点を先取すると、
「勝って当然の青商は焦ってくるぞ。それを見てお前ら楽しめ」と伝え、番狂わせを演じた。
翌日の新聞には「不覚ぼう然 青商ナイン」の見出しが躍った。

 この大会で8強入り。
準々決勝の八戸西戦では、エースの花田雄二投手が被安打2と好投した。
しかし、八戸西の助川清隆投手(現・八戸軟式野球部監督)に19三振を奪われて敗れた。
「19」は、今も青森大会の最多奪三振記録として残る。

 90年、青森大会開幕1週間前に右目を失明した。
五所川原との練習試合中、ベンチで選手と話していると、ブルペンでの投球練習の投球がそれ、眼鏡に当たった。
ガラス片が飛び散り、角膜が切れた。

 2度手術したが、視力は戻らなかった。
初戦に行くことができず、「1回、1番出町が出塁したら2球以内に走らせろ」と部長に伝えた。
出町満選手は1回にまさかの三塁打を放ったが、試合は敗れた。

 2カ月で退院し、出勤した翌日から部活に出た。
「もう打てない」と思っていたノック。バットを振ると、飛んでいく球が左目から見えた。
「まだ、やれる」。そう感じた。
「何万本も打ってきたから、感覚的に覚えていたんだ」

 96年、弘前南で部長になった。
99年夏の2回戦、三浦晃浩主将が三塁打を放てば、サイクル安打となる場面を迎えた。

 ここで、監督に気づかれないように三浦主将にこっそり耳打ちした。
「(三塁でセーフになるかどうか)分からなくても二塁を蹴って、とにかく三塁狙え」

 打球は右方向への長打となり、三塁へ滑り込んで間一髪セーフ。
警察官になった三浦さんは、顔を合わせる度に「良い思い出になった」と語るという。

 教え子に徹底して訴えたのは、集中することの大切さだ。
練習中、歌手の中森明菜さんの話をしていた部員に
「野球以外のことを話してんなら、辞めていいぞ」と伝えたことがある。
「練習中でも本番のようにやるから向上し壁を越えられる。
 一塁まで全力で走るから、球児にとっては人生の勉強になり、高校野球のファンが生まれるんです」

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コメント

中畑先生、元気で、長生きしてください!

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